川崎大空襲とは

中原では「二ヶ領用水」という川が流れていて、田んぼがたくさんありました。江戸時代にはお米はもちろん桃や梨などの果物や野菜も作られ、江戸に送られていました。

春には桃の花や黄色い菜の花、れんげやタンポポなどの色とりどりの花が咲いてきれいな光景でした。

昭和の初めに大企業が田んぼや畑を買い取り、戦争の道具などをつくる工場がたくさん建てられました。東横線が走り、大学やレジャー施設などができ、鉄道を利用する人もたくさんありました。

しかし、だんだんと戦争が激しくなり、周辺の小学校などには防火用水の池が掘られたり、学校や施設などが閉鎖するようになってきました。


1945年4月15日、多くの死傷者を出した川崎大空襲は起こりました。約2時間にわたりアメリカの爆撃機B29から多くの焼夷弾が落とされ、川崎周辺は焼け野原となり、多くの死傷者を出しました。当時の川崎は軍需工場が多く建てられていたため、工場群を含む市街地一帯が一斉に焼き払われました。川崎を爆撃したB29は194機、爆弾数は照明弾が90、通常爆弾72、破砕爆弾98、焼夷弾2種類計12748にのぼりました。

空襲警報が鳴り焼夷弾が投下される中を、人々はいそいで防空壕に入ったり、布団をかぶって畑の中や多摩川の河川敷に逃げました。焼夷弾で燃えあがった家の消火に当たったり、焼夷弾を棒でたたき落として焼失を食い止めた人もいました。又、どこに逃げていいのかわからず、火に包まれて犠牲になった人もいます。

この空襲による被害はとても大きく、現在の川崎区・幸区・中原区および高津区の一部が攻撃され、川崎駅から南側の市中心部は市役所などの建物を残して一面が焼け野原となりました。川崎への空襲は約20回におよび、4月15日の大空襲をふくめた川崎への空襲の死者は記録により768人、1001人あるいは1520人とされ、被害を受けた家は3万5千戸以上、被災者は10万人をこえました。これ以外にも多摩川の河原や日本電気の寮などで多数の死者が出たとの情報もあります。一ヶ月前の東京大空襲の経験から、消火せずにすぐに逃げたため、犠牲者が比較的少なかったという話もありますし、畑や河原など逃げる場所がありましたが、それでもこれだけの人が犠牲になりました。



1945年8月15日、日本は戦争に負けて人々は平和な生活を取り戻しました。

中原ではじめに燃え上がった工場があった場所は、米軍基地になりましたが、市民の運動で返還され高校と平和公園がつくられました。現在、平和公園では家族が散歩したり、子どもたちが遊んでいたりと平和な光景がみられます。

戦時中、戦争の道具をつくる工場があり空襲で焼け野原となった中原区ですが、今では再開発が進み、高層マンションや病院が建てられて、住みやすい街となっています。